日本を代表する古典文学「更級日記」の作者 上総介菅原孝標女像
菅原孝標女像(すがわらのたかすえのむすめぞう)

菅原孝標女像(すがわらのたかすえのむすめぞう)

「更級日記と市原市」

日本を代表する古典文学「更級日記」は、寛仁4年(西暦1020年)9月3日、作者である上総介菅原孝標女(かずさのすけすがわらのたかすえのむすめ)が13歳の時、国司(現在でいう知事?)の役にある父の任国である上総国を出発する場面から晩年までの約40年間をかきつづった回顧録であり、少女時代・上総国から京への旅・宮仕えの生活・結婚・家庭生活など、一生を回想したものになっている。
上総国の国府(現在でいう県庁?)が、ここ市原市にあり、作者は、夢おおき少女時代
(10~13歳)を過ごしたのである。
国府が市原市のどこにあったのかは、まだ分かっていない。
「更級日記」という題名は、作品の終盤、作者のもとへ甥がたずねてきたときに詠んだという、
月もいでで 闇にくれたる 姥捨に なにとて今宵 たずね来つらむ
(月もでない真っ暗な姥捨山のようなところに、どうして今晩たずねて来たのでしょう)
の歌にちなんだという説が一つある。
この歌は古今和歌集の、
わが心 なぐさめかねつ さらしなや おばすて山に 照る月を見て
(旅をしているわたしの心は、なぐさめようとしても、なぐさめられない。信濃国の更級の、この姥捨山に照りわたる月を見ていると、悲しさが増してくるようだ)
という歌をふまえた歌であると言われている。
「さらしな」は信濃国(現在の長野県)にある地方の名で、姥捨山ともいわれる冠着山がそこにある。
作者の夫は、信濃国の国司をしていたことから、それにも関係していると考えられる。
約1000年もの間、読み継がれているこの「更級日記」は、現代にも通ずる部分がたくさんあり、とても興味深く面白い。
2020年は市原から京への旅立ちから千年紀を迎えた。

住所

五井駅東口更級通り(中央分離帯)